人生に喜びはあるか―医療現場の問いと仏教の問い―(3)

向き合うべき問い —四門出遊の問いとALS患者の問い

だから「問いにとどまる」ということは「痛みにとどまる」ということもあるのではないかと思うわけです。しかし問いにとどまる、痛みにとどまって尋ねるといっても、どう尋ねたらいいかわらない。この力をいただくのが仏教ではないかと思います。

そういう基本的な姿勢が仏伝中にあらわれています。(以上六月号末尾)

「衆生や愍むべし。互に相い呑食す」という有名なところがありますが、そういうことを自然の摂理だとか、割り切ってしまって、じゃあ「王宮に戻って楽しみましょう」という父王の申し出を断って、「願わくは、ここに停まらん」という言葉がここにあるということが、仏教の姿勢を表しているのかと僕自身は受け止めております。

そういうことを実際に知ったのは大谷大学に入ってからですね。大谷大学に入る前も、仏教の話自体は何となく聞いていたわけです。医学部の一回生か二回生の時に大阪の真宗学院に入りまして、一年位は授業を受けていたのですが、そこに何か医療の現場の問題とか、自分の問題とかを仏教に尋ねようとは全然思わなかったわけです。

仏教の大事な仏伝の物語に、みなさんご存じの四門出遊の物語があります。老病死を見て、諸行無常を知って、出家をする、という物語です。それも聞いたことがあったわけですが、何が大事なのかわからなかった。老病死を見てというが、老病死は医療現場で毎日のように見ているわけです。ところがなぜ出家するのかわからない。王宮の中は、楽しいことが行われている。介護の現場でレクリエーションをして楽しみましょうというのと同じです。終末期医療で、昔の職業のことを思い出してもらって、大工さんなら大工仕事をしてもらうとか、そういうことをして笑顔になった、とかやるわけです。老病死を見たなら、楽しいことをしたほうがいい、とみんなやっているわけです。諸行無常を知ったなら、なおさら、今の間に楽しみましょう、となる。そういうことを描いている経典もあるということを後から知りましたが、そういう、「老病死を見た、諸行無常を知った」という物語の意味がわからないということと、医療の世界にいて、患者さんの問題、患者さんの苦悩がわからないということが関係していると思うわけです。「老病死を見た」「諸行無常を知った」ということをただ、はかない、自然の摂理だ、というようにしかとらえられないということと、患者さんの苦悩を、医学的に見て、ただ心理的な反応でうつになっているとしかみられないこととが重なってくるわけです。

宮下先生を通して仏教を学んだときに教えていただいたことで、大変大きな学びはまず、「老病死を見た」というのはどういうことか、ということでした。

老病死を見たということによって、これまで信頼し喜んできたものが、もはや本当に信頼し喜ぶことができなくなってしまうこと、これまで支えであると信じてきたものが、確かな支えではなくなること、これが「老病死を見て無常を知った」ということの内実なのだといえるでしょう。
私たちの外部にあるものが壊れることを指して、無常であると言っているのではないのです。私たちの苦しみという経験から、世にある何ものも無常であると知ることになるのです。
(宮下晴輝『はじめての仏教学』五九頁)

つまり、「老病死を見て、無常を知った」ということは、外にあるものを見てはかない、ということではなく、私たちの内にある、生きる喜び、生きる意味が崩れて、信頼がおけなくなることだと教えていただいた。「信じる」とか「信仰」ということにはそういう課題がある、ということを教えていただいたときに、患者さんの問題をどう受けとめるのか、その道筋を教えていただいたと思っています。

ALSという病気は、さきほどもお話ししましたが、いままでできていたことがどんどんできなくなっていきます。仕事をしていた人は仕事ができなくなる。仕事が生きがいだ、仕事が喜びだと信じてきたが、それが崩れる。では仕事ができなくても、せめて自由に動けたらよい、それがあれば喜べる、と依り所を探す。しかし、それも崩れる。食べられたらよい、それが喜びだとみるが、それも崩れる。では動けなくても、食べられなくても、せめて意思疎通ができれば、それが喜びだ、それがあれば人間として生きていける、と思ったら、それもできなくなる。最終的に、完全な閉じ込め状態(TLS)といわれる状態にもなる。どんどんとこれさえあれば生きていけるという依り所が崩れていく。そんな中で、果たして、何を喜びとすればよいのか。何に意味を見出したらよいのか。完全な閉じ込め状態となった人生に喜びはあるのか?これまで喜びである、これが人間である、これがあれば私であると信じてきたものがすべて崩れ、それでも人生に喜びはあるのか。何のために生きるのか、生きる意味を求めざるを得ないのです。

こういう状況が、フランクルが語ることと非常に重なってくるんです。強制収容所で人間であることが剥ぎ取られていく。そのこととALSの状況が重なってくる。フランクルの『苦悩の存在論』の中に、

「人間だけが残された。裸の人間。自分の裸の実存に引き戻された人間――そのかれだけが残ったのである」

という言葉があります。この言葉がALSの方の状況と重なってきたのですね。ある方は「自分が石になっていく」という表現をされました。その時は、ALSは動けなくなる病気ですから、動けないということだけをさしているのだと思いましたけれど、「裸の実存」、――ものになっていかずに、「人間の実存」がどこで保たれるのかということを問題にされていたのではないかと思うのです。そういう中で、生きることの意味、喜び、そして人間であろうとするとはどういうことなのか。

そういうことをもう少し確かめていきたいと思いまして、二〇一〇年三月二十二日放送のNHKスペシャル「命をめぐる対話”暗闇の世界”で生きられますか」という番組を紹介したいと思います。その中で、ALSを抱える照川貞喜氏と、作家の柳田邦男氏が対話をされています。まず照川氏はこのように言います。

(照川貞喜氏の要望書)(抜粋)
動くことができなくて、意思の疎通もできなくなれば、精神的な死を意味します。闇夜に身をおくことになりとても耐えられません。そのときは呼吸器を外して死亡させていただきたく、事前にお願い申し上げます。

「精神的な死」とおっしゃっています。意思疎通があってはじめて生きられる。それを失ったら生きられない、という。それに対して、柳田さんは、生きる道はほんとうにないのか、ということをずっと課題にされている。

(柳田邦男氏の手紙) (抜粋)
照川さんがご自分から意思を伝えることができない状態になっても、照川さんが尚も生きてそこに存在していることはご家族にとって、毎日の生活と人生の大きな支えになるに違いないという私の考え方について、どうお考えでしょうか。照川さんにいつまでも生きてほしいと心から願っているのです。それは私の身勝手な願いだとは十分に承知しているのですが、周りの人がそういう願いを持つことについて、照川さんはどのように感じられるでしょうか。

このような言葉の背景には、柳田氏の次男の自殺がありました。息子が自ら死を選んだ、難病を抱えて生きていたのではないけれど、生きる意味を失い生きていけなくなった。そんな絶望の中を、本当に生きる道はなかったのか。そういう課題が、TLS(完全閉じ込め状態)の中を生きる道はないのかという課題と重なったのではないかと思います。しかし、それに対して照川さんはこのように言われます。

(照川貞喜氏の返事) (抜粋)
柳田さんが訪ねてくれてうれしかった。楽しかった。語りがすばらしく良かった。情がある人だと思いました。
ただ、命については柳田さんの考えがわかりません。家族や社会のために生きろといわれても困ります。私が生きることで家族の支えになることは分かります。
でも家族のために生きろというのは私には酷な話です。人はパンのみで生きるのではない。意思の疎通があって生きられる。人それぞれ違いがあります。私は自分の道を選んだのです。それだけです。
柳田さんに質問です。私は命は自分のものだと思いますが、先生とは考えが少し違うように思います。先生はどう思いますか?

家族も生きる支えにはならない。家族のために生きろというのは私には酷な話だといわれるわけです。そして命は自分のものだという。それに対して柳田さんはこのように答えられます。

(柳田邦男氏の返事) (抜粋)
命ってもうひとつの側面があって、夫婦なり親子なりで共有している。だから片方がいなくなればとても悲しいしつらい。やっぱり共有した命はいつまでも続いてほしいという気持ちがある。そういう家族を見ている自分がまたはねかえって、ああ、自分はまだこの世に存在する意味があるのだというふうに思ったりね。

こういうふうに柳田さんは、存在の意味ということを伝えようとされているんだけれども、生きてほしいという願いは伝わらないわけです。願いというのは、やはり外から生きてほしいと願うということではなく、内から生きたいと願うこと、そういう内からの願いに出会わなければ、生きる力にならない、ということではないか、とお二人のやりとりから思うわけです。この問題は後ほどもう一度考えたいと思います。

今、この照川さんをはじめとしてALSの患者さんが、問題してきたことを見てきましたが、それは、今まで医学の世界でやってきたように、問題を分析して、○○的問題というふうには、とてもいえない問題、生きるということを根本から支える問題だったといったらよいかと思います。生命はこうして生きている、しかし私が私として生きられなくなる、「いのち」が生きられない。ほんとうにいのちを生きる、全うするとはどういうことか。そういう問いがあるということを、仏教の学び、四門出遊の物語をこのように学んで初めて気づかされることになったわけです。ALSの患者さんの問題を、身体的問題とか、精神的問題とか、社会的問題とかというようにいくら分析しても、見えてこない問いでした。

それで、それはなぜ見えてこないかといえば、いくら分析しても、そこには「人間として」ということがないからではないかということを、宮下先生を通して仏教を学んだときに教えていただいたことでした。
(講義途中休憩) (続く)

[『崇信』二〇二二年七月号(第六一九号)に掲載]