2023年受念寺永代経講話 「「そのまま」と「ありのまま」—願に生きるということ—」

[2023年5月8日受念寺の永代経での法話をまとめたものです]

1.私たちにとって「信じる」とは何か(前回の振り返り)

みなさん、こんにちは。前回は報恩講でお話しさせていただきました。その時のテーマは、「私たちにとって「信じる」とは何か」ということでした。

老いとか病、死ということが、私たちの大きな関心でもあり、仏教のいちばん最初の出発点の課題でもあるわけですが、老病死ということは、どうしても何か失われていくことばかりのような感じがするわけですが、そうではない、失われないものがあるのではないか、ということを少し確かめさせていただきました。

そしてそういう、失われない大事なものというこという前に、では私たちは、何が失われて苦しむのか、そういうことから確かめました。

ALSと認知症の方のお話しをしました。認知症外来で朝もずっと部屋に籠もりきりで、起きてこない、どうしたらいいですか、と家族の人が相談された。ご本人はなにか言いたげにされているけれど黙っている。それで二人だけでお話しすると、「朝起きても何もすることなくて空しい、みんなの前に出ても迷惑がられているようで居場所がない、さみしい」とおっしゃるわけです。老病死によって何が奪われるか、といったときに、もちろん身体であったり、いろいろな力であったり、そういうことがあるわけですが、外に見えるようなものだけではなくて、これまで支えにしてきたものが支えでなくなったり、これまで喜びだと思ってきたことに喜べなくなるわけですね。生命としては心臓もうごいているし、腸もはたらいている、けれども“いのち”が生きられない、私が私として生きられない、生きること自体が苦しい、むなしい、さみしい、喜ぶことができないということがあるわけです。

1.1長谷川和夫先生の話

すこし長谷川和夫先生の言葉について紹介します。長谷川先生は認知症の専門家ですが、ご自身が認知症になられました。NHKの番組で取りあげられていましたが、そこではご自身の苦悩を包み隠さず語っておられました。その言葉を少し紹介します。

「生きている上での確かさというのが少なくなってきた」「朝起きて今日は何をするんだろうな。俺はいまどこにいるのかな。自分自身のあり方がはっきりしない」と話され、日々つけている日記には、「一所懸命やってきた結果こうなった。どうも年をとるということは容易ではない。僕の生きがいは何だろう?」(NHK『認知症の第一人者が認知症になった』(2020年1月11日放送)より)

こんなふうに先ほどお話しした認知症の方と同じような、確かなものがわからなくなる、空しい、という苦悩を語られます。そして、

「医者の時はデイサービスに行ったらどうですか、そういうことしか言えなかったよね。少なくとも介護している家族の負担を軽くするには非常に良いだろうというぐらいの、素朴な考えしか持っていなかった。何がしたいですか?何がしたくないですか?そこから出発してもらいたい。ひとりぼっちなんだ俺、あそこに行っても。」(同上)

先生ご自身はデイサービスを進めていました。確かに籠もっているより人と交流したり、生活にハリができたり言い面もあります。けれどもご自身がいざいってみて、ゲームしたり、レクリエーションをしたりするわけですが、それだけだとなにか空しいわけです。そういうものが確かな支えにならないということですね。そして先生が診ておられた患者さんが残された言葉を紹介します。このかたは音楽が好きで、亡くなったあとに発見された五線譜に、こんなふうに書かれていたんですね。

「僕にはメロディーがない/和音がない/響鳴がない(中略)この音に響鳴するものは/もう僕から去ってしまったのか/力がなくなってしまった僕は/もう再び立ち上がられないのか/帰って来てくれ/僕の心よ 全ての思いの/源よ 再び帰って来てくれ/あの美しいこころの高鳴りは/もう永遠に与えられないのだろうか」(同上)

亡くなった後にそれを見て先生は涙されました。その患者の奥様は「彼の苦しい心に寄り添えなかったというのが一番の悔いですね」とおっしゃいました。そういう確かなものがはっきりしない、という苦しみということは大事な問題なのに、なかなか気がつけない問題なわけです。

確かな自分、確かな喜び、確かな居場所、確かな人間同士の関係、心が響き合うような関係、そういうことが見えなくなる。それはたとえば認知症にかかった人だけが問題になるわけではないし、たとえば心が弱いからそうなるわけでもない。たとえば、あなたそれは考えすぎですよといったりするが、考えすぎだからそうなるんじゃない。ああ、あなた経験が足りませんねといったりするが、そういうわけでもない。「人間だから」抱えている問題なんだということですね。そう受けとめないから、なかなか気づけないんじゃないかということですね。

人間は確かだと信じられるものを求める。だからその「信頼」が崩れたら生きられなくなるわけです。それが実は宗教の「信仰」ということが問題にしていることですね。お釈迦さまが問われたこと、ということもそこから始まっているわけです。私たちは信じるものが崩れたらいきていけないわけです。ですから、それならほんとうに生きていける「信」、ほんとうに人生を満足に生きていくことのできる「信」とは何か、とそういうことが問題になってくるわけです。

1.2欲と願 ―問題提起—

この確かだと求める心というのは、大きな意味では「意欲」ですね。何かを求める心です。これは仏教では、否定しているのではないかと思われるかも知れません。苦しみのもとなんじゃないかと。これはたしかにそうなんですね。何かを求める心と言うことはそれによって迷ってしまうという面がある。しかし、仏教は「意欲」そのものを否定していないですね。意欲のなかには、苦しみの元になるものと、そうではなく生きていく力になるものがあるということを見いだすんですね。そういうことを今日は確かめたいと思います。


苦しみのもと 渇愛   生きる力のもと 願

1.3岩崎航さんの話

さて、もう少し前回のお話しを思い出していただきたいと思いますが、最後に岩崎航さんというかたを紹介しました。

岩崎さんは筋ジストロフィーという筋肉の病気にかかって、三歳で発症して、だんだんと進行していくんですね。同世代の人と自分の境遇を比べて、苦しむんですね。こんな病気の体をもったままで生きていても将来がない、希望がないといって絶望して、自ら命を絶とうとするんです。ところが、それを乗り越えて行かれる。そのときに、湧き上がってきた気持ちがあったというんですね。「このまま自分が死んでしまったら、自分はなんのために生きてきたんだろうという問い」が沸いてきたといいます。「ほんとうにいのちを全うするとはどういうことか」という問いがおこったわけですね。つまり、これまでの岩崎さんは「人と比べてばかり」とおっしゃっていましたが、そうではなくて「自分自身を生きたい」というこころがあることに気がつかれたわけです。「やっぱり最後には自分、病をもちながら生きる病気を含めての自分なんだ。ようやく病を含めての自分として、生きるという気持ちが固まった時に、はじめて私は、自分の人生を生き始めた」とおっしゃった。

2.「そのまま」と「ありのまま」

このように、人と比べてばかりの人生から、病も含めて自分だ、という自分自身を生きようとする人生が始まったと言うんですね。

前回は、そんなふうに岩崎さんが、はじめは「他人と比べて自分の人生は意味がない」と決めてしまいそうになった。ところが、「病気を含めての自分なんだ」ということに気づかせたものがあったんですね。それは何なんでしょうか。そのことを次回確かめたいと思います。というところで終わったんでした。

これはとても難しい問題です。病をふくめて、そのままを生きましょう、みたいな話しであれば、それは私にはちょっと無理じゃないか、と思ってしまうんじゃないでしょうか。仏教のお話しをよく聞かれている方であれば、仏教というのは、すべて阿弥陀さまにおまかせして、そのままでいいんですよ、そのままを生きなさい、みたいなことを聞いたことがあるかもしれません。でもどうでしょうか。わたしたちはそれで納得できますかね。「そのまま」といわれても現にいま、こんな困っているじゃないか。こんな苦しいじゃないか。とてもそのままじゃ生きられない、そういうことがあるんではないでしょうか。

加来雄之先生の文章を紹介します。

「そのままの救い」という言葉を聞くことがある。
君は君のままでよい。そのままでよいのだ。
賢いとか愚かとか、役に立っとか立たぬとか、世間の価値観に押しつぶされ喘いできた私たちに「そのままでよい」という言葉は温かく響く。世間の価値観の呪縛から救ってくれる。その意味では、この言葉はこの世からなくしてはならない大事な語りかけである。
しかし「そのままでよい」という言葉は、或る安堵を与えてくれても、私たちの最終的なよりどころにはならないのではないか。
「君はそのままでよい」は、君は我がままでよいことではない。
「君はそのままでよい」は、君は他人のいうままでよいということではない。
「君はそのままでよい」とは、君は変わってはならないということではない。(『彰見寺だより』より)

「私たちの最終的なよりどころにはならないのではないか」とおっしゃっているように、仏教は単にそのままでいい、ということをいっているのではないと思います。加来先生はつづけてこのようにおっしゃいます。

 なぜ「そのまま」だけで終わってはいけないのか。その理由は、これまで私たちは、これまでも「そのまま」であったし、そのなかで私たちは喘いできたからである。「そのままでよい」が、喘ぐことへのアキラメという現実の肯定になったり、喘いできたみずからの歴史から目を背けるという現実からの逃避に終わってはならないからである。私たちは喘いできた現実にきちんと向き合い、はっきりとその正体を知ることによって、「そのまま」は「そのまま」であることを変えることなく、次の「ありのまま」の私という課題へと移っていくのである。(同上)

仏教は、このように、単に諦めることでもないし、また現実逃避でもないと思っています。「そのまま」というと、「そのまま」を受け入れてアキラメよ、と言うようにも聞こえる(欲を捨てて生きよ)し、難しいこと考えずに忘れて「そのまま」楽しいことだけ考えよ(欲望のままに)というようにも聞こえる。しかし仏教は、どちらも結局どこかで行き詰まりますよ、それは「最終的なよりどころにはなりませんよ」ということをちゃんというわけです。「私たちは喘いできた現実にきちんと向き合い、はっきりとその正体を知る」ということなしに、「そのまま」だけだとどうしても行き詰まるんですね。そういうことをここでは、「そのまま」と「ありのまま」を区別して語られます。
では「そのまま」と「ありのまま」はどう違うのでしょうか。

「そのままの君でよい」とは、「ありのまま」の自分が見えるときにはじめて実現するのである。なぜなら私たちの事実は、私たちの思いのままにではなく、「ありのまま」という私たちの身の事実にあり、そこだけが私たちの立ち上がる原点であり、歩み始める出発点だからである。どんなときでも、どんな場所でも、「そのまま」から出発できるのは、「ありのまま」という事実を生きていると目覚めることによってである。
でも、どうして「ありのまま」にならなくてはならないのか。どうなることが「ありのまま」ということなのか。どのようにして「ありのまま」になればよいのかが分からない。
「ありのまま」とは、「思い」をはなれた事実のことである。「ありのまま」とはとらわれのない曇りのない清浄な眼でしか見えない事実である。「ありのまま」とは、現実が現実として見えることにおいてのみ成り立つ。(同上)

「そのまま」というのは、私たちの思いのまま、というんですね。でも、私たちは思いに行き詰まる。「こうありたい」という思いと現実のギャップに苦しむわけです。私たちの思いの中の「そのまま」ではなくて、「ありのまま」というのは「思い」をはなれた事実だと言うんですね。

3.「思い」を超えたものとの出会い

3.1成績の悪い子ども

すこしわかりやすい例でいいますと、あるところに、学校の先生になりたいこどもがいたんですね。ところがこの子の成績がなかなか上がらないんですね。だからなんとか成績を良くしようとがんばる。それで成績がよくなればいいですが、ならなかったらどうなるか。行き詰まりますよね。「そのまま」では行き詰まるんですね。このマイナスをプラスにしたい、プラスに成った自分、成績がよくなった自分こそ本当の自分だ、といって求める心。これも求める心ですが、これを「渇愛」というんですね。この言葉がのちに「煩悩」と言われるようになります。当然のように、喉が渇いたら水を飲むように求めるんですね。だからやめられない。成績を健康に置き換えてみてもよくわかりますね。健康がいらないひとはいないですね。だれでもプラスを求める。けれども現実はそうはいかないから、もとめる心によって苦しむわけです。

では、成績が悪い子はどうするか。みなさんどう言葉をかけますか?そんなときに同じように成績が上がらなくてなやんだ先生がこう言うんですね。何と言ったと思いますか?もっと頑張れ?違うんですね。あなたは成績がなかなかあがらないからこそ、勉強ができないこどもの気持ちによりそえる、いい先生になれますよ。そうおっしゃんたんですね。そうすると、「成績がわるい」ということは、ただダメだということではなくて、大事な意味をもってくるわけです。この「からこそ」ということが大事です。「成績がわるくても」「ても」といってしまうと、アキラメですね。成績が悪いのはマイナスだけど、いいところもある。それだと悪いことは悪いまま。

そうではなくて。「悪いからこそ」なんですね。それこそが大事な意味なんだというんです。こういうことが「思い」を超えたものとの出会いではないかと思います。「思い」のなかだけだと行き詰まるわけですが、そういう「「思い」を越えた大事な意味」を知らせる人に出会ったとき、「成績が悪い」という事実は変わらないけれど、その事実のままで生きていく道が開けるわけですね。「意味」が開かれる。いままで成績が悪いと言うことは、「意味」がない。「意味」が閉ざされていた。それが、出会いによって「意味」が開かれる。それが「ありのまま」を生きるということが始まるということではないでしょうかね。

私たちは「思い」を満たすこと、思いどおりにすることが「自分らしく生きる事だ」と思っています。でもそれだけじゃない、私が気がついてない私がある、それに気づかせる者との出会いが、私を生かすと言うことがあるということですね。


苦しみのもと (渇愛)   生きる力のもと (願)

良い
↑×
悪い「そのまま」に苦しむ    ・・・「ありのまま」を生きたい (菩薩の「誓願」)

「思い」    ・・・ 「菩提心」・・・「思い」を越えたものとの出会い (仏)

「意味」が閉じている       「意味」が開かれている

3.2岩崎さんの出会い

では岩崎航さんは何にであったのか、ということですね。岩崎さんにとって、「病を含めて自分だ」といって、自分の思いを超えて「ありのまま」を歩み出せるような出会いとは何だったのだろうか。その一つが、岩崎さんが、お母さんの心に触れたということがあったわけです。このように語っておられます。

 激しい吐き気に襲われ、背中を丸めて苦悶していると、母は僕の背中をどこまでもさすり続けてくれた。
「ああ、自分はなんでこんなにも、絶え間のない地獄の中で生きていかなければならないのか。」
悔しくて、辛くて、涙が止まらなかった。
母は黙って僕の背中をさすり続けた。
あるとき、その地獄のまっただ中で、僕の中にパチンと何かが弾けるような一つの感情が生まれた。
「自分は今、苦しみの地獄にいるけれど、そばにこうして背中をさすり、励まし、祈り続けてくれる人がいるではないか。」
親でなければ、いったい誰がこんな地獄に寄り添ってくれるだろうか。
理屈ではなく、何か大きな感情が、僕の中からこみ上げてきた。僕の苦しみを自分の苦しみとして、そこにいてくれる人の存在。
そう思うと涙がポロポロこぼれてきた。(岩崎航「母の手」『点滴ポール 生き抜くという旗印』p.108-109)

こんなふうに岩崎さんの苦悩を自分のことのように受け止めてくれる母の心に出会った。病を持った体では希望がない、と岩崎さんは行き詰まっていた、つまり意味が閉じていたわけですが、お母さんはそう見ていなかったわけですね。病を抱えて苦しみながらも生きる姿をちゃんと輝いていると見た。意味が開かれているんですね。だから自分を見失うことなく自分自身を生きてほしいと願っていたわけです。そういう母の心に出会って、そうありたいと自分も思えたわけですね。
またこんなこともおっしゃっています。

「病を含めてそのままの自分」で生きることができずにいたとき、ポール・ヴェルレーヌの詩に出会った。詩の中に自分の苦悩を見た、そういう詩との出会い。(岩崎航『日付の大きいカレンダー』p.166-170)

先に発症した兄が生きる姿との出会い。 (同上p.84-85)

こんなふうに、岩崎さんは、苦しんでいるからこそ出会ったものがたくさんあったわけです。「思い」のなかだけであれば、苦しむと言うことはただ悪いことでしかない。思いの中で苦しんでいて、思いがかなわなければ意味がないと思っている。けれども、実はその苦しみに大事な意味がある。苦しみの奥底には、なにか人間として生まれたからには、うまれなければ出会えないような深いものに出会いたいという心があって、そういう心が、思いを越えたものに出会わせるわけですね。

3.3菩薩と仏

その心を「菩提心」といいます。菩提心をもって確かなものを求める人のことを「菩薩」という。だからある意味では皆「菩薩」なんですね。

その「菩薩」が「思いを越えたもの」に出会うんですね。その菩薩が出会うのが「仏」です。仏というのは、自分の思いを越えて、自分自身を生きた人と言ってもいいと思います。「ありのまま」に気づかせてくれる人です。「仏」も最初から仏なのではないんです。「そのまま」に行き詰まって悩み抜いた「菩薩」だったんですね。仏も仏に出会って、仏になったんです。仏の生き方に出会って、「ありのまま」に気づかされて自分自身に出会って、自分自身を生きられるようになった人です。「菩薩」というのは「仏」に出会うことによって、自分も「仏」になっていく。

ですから、自分より先に、自分の苦しみを乗り越えて、「ありのまま」に目覚め、そういう自分自身を生きた人がいる、そういう人に出会って、「自分もそんなふう生きたい」「自分も自分自身を生きたい」「ありのままを生きたい」と願うわけです。これを菩薩の「誓願」といいます。これは「自分の思い」とは違う。私がこうしたい、ああしたいというもの「たい」であり「欲」ですが、そうではなくて、苦悩を乗り越えたあなたように自分自身を生きたいという「たい」はおなじ「欲」でも違う。それを清浄意欲といい、「願」というわけです。仏教の思索の歴史の中で、最初は「欲」というのは苦しみのもとでしかなかったけれど、そのなから「願」を見いだしたのが大乗仏教であり浄土教だと受けとめられるかと思います。

岩崎さんが、苦しみの中で、確かな自分を求めて歩む姿は「菩薩」の課題と重なる。そしてその岩崎さんを生かしたものは、お母さんの心であったり、先を行くお兄さんの生き方だったり、先人の言葉だったりするわけですが、岩崎さんに、自分自身に気づかせる智慧となったわけです。それは「菩薩」が「仏」の智慧に出会って、「あなたのように」生きたいと願わせたという出会って歩んだ姿と重なるわけです。

4.願に生きた人々の歴史 —阿難と釈尊、法蔵菩薩と世自在王仏

そういう出会いを表したのが『無量寿経』です。出会いの物語なんですね。親鸞聖人はその物語に出会って感動して、今日もお勤めした『正信偈』をうたわれたんですね。

その時、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして光顔巍巍とまします。尊者阿難、仏の聖旨を受けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して仏に白して言さく、(『仏説無量寿経』(真宗聖典p.6-7))

このように阿難という一番のお釈迦さまの弟子が、お釈迦さまの姿を見て、輝いているというんですね。多聞第一と言われる人で、ずっと釈尊と一緒にいるわけですから、すでに出会っているのですが、ここでやっとほんとうに出会ったということをいうんですね。そして、

去・来・現の仏、仏と仏と相念じたまえり(同上)

仏は仏を念じ、また仏は仏に念じられる。つまり、あなたのような仏陀になりたいという願いに生きた人々の歴史がある。いのちを生かし合ってきた歴史です。そして、

今の仏も諸仏を念じたまうことなきことを得んや。何がゆえぞ威神光光たること乃し爾る(同上)

「今の仏」というのが釈尊です。阿難は釈尊に問うわけです。あなたも諸仏を念じておられるのではないですか?その歴史の中に生きる者であるから輝いているのではないか?と問いかけるんですね。その問いに対して釈尊は、「そうだ」と応えるのではなく、物語で応えるんです。それが法蔵菩薩が世自在王仏に出会って、阿弥陀仏に成っていく物語です。物語の中で物語に応えるという形になっているんですね。

ですので、私たちも何か論理的にこうなっているから、こうだ、というよりは、実際に人が人を生かしてきた物語を確かめないといけない、と思いますので、今日は前回に引き続いて患者さんや岩崎航さんの人生から確かめさせていただきました。

今日は「永代経法要」ということでお話しさせていただきましたが、永代経というと先祖供養というイメージがありますが、ただ自分の先祖の供養ということで終わるのではなく、「願い」がいのちを生かしてきた歴史に出会い、そのことを仰ぐ、敬うということを確かめる法要とさせていただけたらということで、「願い」に生きるということをお話しさせていただきました。

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