意思決定支援が見逃していること

[この記事は『崇信』二〇二三年三月号(第六二七号)「病と生きる(88)」に掲載されたものです]

昨年十二月、「本人の意向を尊重した意思決定のための相談員研修会」というものに参加した。意思決定を支援する相談員の育成と、ACP(注)への理解を深め、本人の意思が尊重される環境整備に資することが目的とのことである。『崇信』二〇二二年七月号「病と生きる(80)いのちの意味が開かれた場所」でも記したように、私はACPに対して懐疑的であり、その前に必要な学びがあるのではないかと考えている。しかし、この問題に関わる方々の取り組みを知らずに批判だけするということにならぬよう、研修会に参加してみたのであった。

 まず一人の女性の模擬事例が提示される。役者さんが演じるドラマ仕立てのビデオまであり本格的である。体調が悪くなっていく過程で、どのように本人の意向を確認するかということをグループワークで検討する。

話題が進み、本人の意思が確認できない状態になったとき、どのように意思を推定するのかということがテーマとなる。入院し、寝たきりの状態である。入院を続けるのか、もとの施設に帰るのか、本人の意向を推定するという設定である。このグループワークはロールプレイ形式で行われる。方針を話し合う司会役の医療ソーシャルワーカー、最も親しい姪、あまり面会に来ない息子、などのそれぞれの登場人物になりきって話し合いを行う。私は司会役が当たった。

姪役は、ビデオで得た情報から、「私はずっと近くで見てきた、点滴を嫌そうにしている。入院する度に元気がなくなる。施設でカラオケをしていたときは楽しそうだった」といい、入院は望んでいないはずだという。ビデオでは他にも、施設が夫と営んでいた喫茶店に近いことを喜んでいる場面や、夫の入院生活を思い出して、入院してからつらそうだったといって涙する場面もあった。施設に帰ることが本人の意思で確定のような雰囲気だったので、司会役としては息子役の人に話を振る。すると息子役は「母には少しでも長生きしてほしい、入院しているほうが安心だ」と言われた。

おそらく研修の意図としては、生活歴を丁寧に確認し、「本人の望んでいること」を推定しようということであろう。だから「カラオケが楽しそうだった」からできるような環境にしようとか、「夫が入院してつらそうなのを見ていた」から入院を嫌がっているとか、思い出の場所に近い施設に戻れるようにしようとか、そういう意見が大半であった。確かに本人の意向を聞くというのは、ある意味当然であろう。私もそうしてほしいと思う。しかし、本人が望んでいること、その人らしさということが安易に語られているような気がした。

私なら、少しカラオケを楽しそうにしていたからといって、カラオケばかりやらされたらたまったものじゃない。私らしさを勝手に決めないでほしいと思う。また、思い出の場所に行きたいということは、直接的にはそうだろうが、その先にあるのは「確かな居場所に帰りたい」ということだろう。施設に帰ったからといってそこが確かな居場所だろうか。どこであってもそこが確かな居場所にならなければ、結局心はさまようしかない。また、大切な人がいのちを全うしていった姿をただ「つらそうにしていた」としか見られないとすれば、それはいのちの尊厳を見失っていることにならないか。

私なら、ただ楽しいということだけではなく、悲しみや葛藤を受けとめる人がいてほしい。もし私の意思が尊厳を見失っているなら、意思の外側から呼びかける先生の言葉がほしい。あらゆる意思がかなわず崩れ去った先で、そのなかでなおも叫び続ける心の奥底の声を聞いてほしい。

実際の場面では、その時々で何らかの選択をしなければならず、少しでも本人の意向に添えるように尽力する皆さんの活動には頭が下がる。しかし一方で、意思を確かめることばかりに関心が向かい、意思を超えた大事なこと(根源的な願い)が人間にはあるということを見逃しているように思えてならないのである。

(注)ACP・・・アドバンス・ケア・プラニング。将来の医療やケアについて話しあい、本人による意思決定を支援するプロセスのこと。人生会議とも呼ばれる。