人生に喜びはあるか ―医療現場の問いと仏教の問い―(8)

質疑応答(つづき)

人間としての学びをしたい

:岸上さんは僕の実家の認知症の母の主治医でもあって、相談しています。僕はどうしても昔のしっかりとした母親と比べて、「何をしているんや」という気持ちで見てしまう。今でもそうです。人間として僕も母と同じ苦しみを抱えて生きているとなかなか思えないんですが、そういうこととは別に、母と一緒に時々デイサービスの場所に出かけるんです。そしたら、先ほどの岸上さんの話のなかにもあったように、デイサービスというのは喜んで帰ってほしいという気持ちがあって、歌を歌ったりとか、なにか笑顔で帰っていただこうという感じなんですね。でも母のつまらなそうな姿を見ていると、もう少し、人間とは何なのかとか、そういう問題を、仏教の専門的な知識はいらないと思いますが、一緒になってそういうことを学べる場が開かれれば、家族も学びになると思うのですが、そういう現場というのはあるのですかね。そういうことは現場に導入できないのですか。

岸上:それは常々感じていることです。デイサービスへいやいや行かれている方も多くて、確かに人と話すだけでも、ひとつのコミュニティーというか出会いという面もあって、大事な側面もあるんでしょうし、楽しいことをやるのはダメだというのではないんでしょうけれど、それだけになっていますね。実際利用している方も空しさを感じておられるようです。それからこれもある番組で、認知症の専門家で大家の長谷川和夫先生という方がおられて、長谷川式という認知症スケールまで開発された先生です。自分がデイサービスに行って、そこで「僕は独りぼっちなんだよ」とおっしゃるんですよね。そこに本質が表れているように思います。現場の人はそれをうすうす感じていながら、どうしていいかわからない。どこにその問題を確かめていったらいいかわからないということがあって、それが仏教を聞いた者の責任でもあって、そういう人間としての問題を確かめる場を開いていけたらいいなと思うわけです。デイサービスだけではなくて、もう一歩踏み込んで話していくというか、悩みを話すだけでもいいんでしょうけれど、そういう場所がなくて、悩みも話せないという状況があります。具体的な取り組みとしては、たとえば認知症サポーター養成講座というのがあって、そういうところで実際どういう問題を抱えているのだろうかと、利用者さんと医療者とが話し合う場もあるんですけれども、そういう場がもう少し広いかたちで開かれたらいいのかなと思ったりします。

:安田理深先生の奥さんが一〇三歳まで生きられたと思うのですが、一〇〇歳を越えても相応学舎で一番前に座って本多先生の話を聞いておられました。それと同時にデイサービスにも行っておられましたが、「『結んで開いて』とか、ああいうことは空しい、もう少し人間についての学びをしたい」とおっしゃっておられて、それは仏教に関わられて、介護職の人たちの取り組みについて、そんなことをしてほしいと。私の母が行っている間は無理なのかなと思いますが、そういうふうに開いていったらいいと思っておりますので、岸上さん、またよろしくお願いいたします。

岸上:話の中でも言いましたが、医療の現場では「認知症だから」という特別な問題として扱ったり、「○○的な問題」としてしか見られないので、「人間として」というところから一緒に確かめることができないかなと、いつも思っております。

自覚はどこで成り立つのか

:ALSの患者さんが内から生きたいと思うようにならなければ救われない、という話がでましたね。それから先ほど、苦しむというかたちで、私たちは真実を求めているんだ、ということがありましたが、それは苦しむというかたちで真実を求めているんだということを本人が自覚しなければ、やはりそれは力にならない。そのことと最後に岸上さんが言われた「出会い」ですね。その関係をもう少しお話ししていただけませんか。

岸上:それは非常に難しい問題でもあり、大事な問題でもあると思うのですが、安田先生は、出会うということを、自覚することなんだと受け止めておられたのでないかと思います。では「出会い」とひと口に言っても、人と人が顔を合わせて出会うことがありますが、ただそういうことではないわけで、その内実は何なんだろうかというときに、自覚というところで押さえられていくんだろうと思います。では、その自覚ということがどこに成り立つんだろうかということがまた問題で、それを「外から開かれる」という言い方で、そういうかたちで押さえていけるのではないかというふうに思っています。

仏弟子として生きる

:全部はお話をおうかがいできなかったのですけれども、「人生に喜びはあるのか」というタイトルにまず引かれたのですけれども、人生は生まれてから死ぬまで、特に病気とか死ですね。自分にとっても切実になってくるんですが、その場合に病気になると、苦痛がともなったり、だんだんひどくなったり、死に近づいていったりするわけですけれども、そういう病気や苦しみの中にあっても、喜びはどうして可能なのかということですね。いろんな病気なったり、最後は死を迎えるわけですけれども、そういう状況にあって、「喜び」というのは果たして可能なのかという問いを私は常にもっているんですね。そして、その喜びと仏教者であるかないかということと、どう違うのかなあということを思うわけです。そういう問いをもっていますので、よろしくお願いいたします。

岸上:非常に大きな問題で、お答えできることではないかもしれないのですが、それは「仏教者」、「仏弟子」だということと、喜びがあることは、おそらく同じことなんだろうというふうに思うわけです。親鸞聖人が言われるような「真の仏弟子」ということになっていかないような在り方というか、そういうことを確かめていかないといけないかというふうに思います。ですので、喜べるということは真に仏弟子として生きることだと言っていいのかなというふうに受けとめています。いかがでしょうか。

:今、Tさんの言われたことに答えることになるかどうかわからんのだけれど、ALSと聞くと、岸上さんにも申したことがありますが、浅田(友井)さんはALSだったんですね。最後は喉の筋肉もはたらかないと、食べることもできないと。それで「あと三年半の命だ」と言われて、それで医師には「すべてお任せします」と言っておられた。私はその「三年半」の時間が経った後だったか、前だったか覚えていないのですが、会いにいったのですね。そしたら、輝くような顔で、「一日一日が新しい」「一日一日が恵まれた一日だ」と言われて、それで私はその場を動けんようになったんですね。「この人はすごい人やなあ」と、「念仏に生きるとはこんなことなのか」と、そんなことを教えていただきまして、この人の世界はどんな世界なのかと、そういう問いだけがあるのですね。そして、それからしばらくして亡くなられた時に、児玉先生が「この人の人生は『いぶし銀』の人生であった」と。辛いことは山ほどあったけれども、苦悩とともに深まって、輝いていかれた人生であったと、そんなふうに言われたことが、今でも耳の底に残っているのです。Tさんがあのように言われたから、そんなことを思うしだいです。

岸上:僕が出会った患者さんなんかも、いわゆる仏教者ではないような方が、なぜこういう状況でそんな態度をとれるのだろうかと、感銘を受ける場面が多々ありました。それを、自分が仏教者であるというなかで、喜びということを見出しているけれども、ほんとうに喜んでおられる日々、輝くようないのちを生きるというのでしょうか、そういうことを見たときに、それは仏教だからということではなくて、事実としては、そうやって歩んでいる事実があると。それをどう受け止めるのかというだけなのかなと思っております。

その人とどう出会っていくのか

:Mさんの話を聞いていて、今、ここへ来る前に崇信学舎へ寄ってきたんです。(髙嶋)久さんと会ってきたのですけれども、久さんが浅田さんの最後のことを話していらっしゃいまして、浅田さんは学舎で亡くなられたと。「その時にどんなふうにして亡くなられたのですか」と聞いたら、「髙嶋を呼べ、髙嶋を呼べ」と最後に言って、髙嶋さんはそのベッドの横で居眠りをしていたと。その中で息をひきとっていかれたということを聞いたのですね。つまり、そういう浅田さんの生き方、それから、明日は出雲路先生の三十三回忌があるわけですが、出雲路先生は亡くなる前に、たしか家山さんだったと思うんだけれど、「出雲路はここでばたばたになって死んでいきます。しかし、安心してください。いのちは決して無駄にはしませんから」と、電話をされたというんですね。そういう人がいるということね。ばたばたになって死んでいっても、無駄にはならないいのちを生きている人がいるということ。それは浅田さんも同じだったと思うんです。そういう人がいるということが、岸上さんの言われる「出会い」ということと繋がっているんでしょうか。そこを聞きたいです。

岸上:そういう方と出会えるというんでしょうかね。いろんな人生を皆さん歩んでこられて、その人生をただ「あぁ苦しんで亡くなっていってかわいそうだな」というふうにしか見られない出会いもあり、だけれども、そうやってどんなに惨めになって、ばたばたになっても、「これが自分の人生なのだ」と言って、そういう人生を全うしていった人だというふうに見るのかという、そこが大きな分かれ目なのかなというふうに思うのです。出会いということは、その人生を生きた人と、その後を追いかける我われとの間でしか成り立たないことですから、その関係の中で、その人とどう出会っていくのかということがやっぱり自分にとっても課題なのかなと。ALSの患者さんもそうですけれども、いろんなものを抱えて生きてきた方と、自分がその方の人生をどう見て、どう出会っていくのかということが自分の課題でもあるかなと思います。その方に「仏」として出会うといっていいのかもしれませんが、いま出会い直しているところかもわかりません。今まで私が出会ったAⅬSの方が、どういうふうに自分の目の前で生きてこられたのかということを、もう一回いま出会い直しているというのでしょうか。今、お話を聞かせていただいて、そういうことを思いました。ありがとうございました。(続く)

[『崇信』二〇二二年十二月号(第六二四号)に掲載]