晴れやかな顔

[この記事は『崇信』二〇二三年七月号(第六三一号)「病と生きる(91)」に掲載されたものです]

先日、しばらく入院されていたパーキンソン病のかたが退院された。何度か入院しており、今回は前よりも身体の動きが悪くなってきていた。とはいえ、パーキンソン病は比較的薬が効きやすい病気である。新しい薬も出てきている。今回の入院でも新しい薬を処方し、少し症状の改善も見られた。

しかし退院前に伺ったとき、沈んだお顔でこのようにおっしゃった。「身体の調子はかわりない、でも生きるのがつらい」と。身体的にはむしろ入院時よりも少し良くなっている。しかし今日一日が生き生きと生きられない。生きていることを喜べない、というのであった。

さまざまな形でこの問いが投げかけられてきた。そして、それにどう答えたらよいかという思いばかりで、私自身が問われていなかったことを、これまでも確かめてきた。苦悩を対象として見るような医学の視点だけでは、その問いに向き合えなかった。そして今も十分受けとめたとはいえない。どこまでも私自身の奥底からの叫びを耳として、患者さんの声を聞いていくしかない。

しかし一方で、私自身の中に生きる力を与える言葉はないが、仏陀を仰ぐ人々の物語が、言葉を超えて生きる力を与えるということがあるのではないか。つまり、老病死の苦悩から投げかけられた問いを自らの問いとし、どんな状況においてもその問いに応えつつ、人生の意味を創造しつづける道を歩んだ者を「仏陀」というのであれば、出会った人を仏陀と見て、仏陀に学ぶ人々を知っている。私自身が仏陀に出会ったとはいえないが、仏陀を仰ぐ人々を知っているのであれば、その人々の姿を語ることはできる。

私は先の患者さんに、浅田友井(暁芳)さんのお話をした。直接お会いしたことはないが、宮森忠利先生から晩年のご様子をお聞きした。筋萎縮性側索硬化症(ALS)になり、会話も食事もできなくなり、医師よりあと三年半の命だと言われた。しかし宮森先生が会われた時、五十音の文字盤で、「一日一日が新しい」「一日、一日が恵まれた一日だ」と穏やかな表情で語られたという。「念仏に生きるとはこんなことなのか」と動けなくなるほどだったとお聞きした。浅田さんが亡くなられたとき、児玉曉洋先生は「『いぶし銀』の人生であった」と言われたという。苦悩とともに深まって、輝いていかれた人生であったと。このことは二〇二二年崇信同人会でもお聞きし、川島弘之さんも語っておられた(『崇信』二〇二二年十二月号)。

そのことをお話しして、あなたも今日一日、新しい一日を生きておられる、と言った。本当は「いぶし銀」というたとえが巧妙なのだが、輝いているということをわかりやすく伝えようと、誰も成し遂げていない一日を成し遂げとげておられるという意味で金メダルをとるようなものだと言った。そして、あなたの姿に私は勇気をいただいているとお伝えした。

そのとき、とても晴れやかなお顔で、「そのお話が聞けてよかった」とおっしゃった。患者さんも私も、浅田さんに直接お会いしたわけではないが、生きる意味が開かれた人生を最後まで送られた人に、一緒に出会わせてもらったような気がした。

出会うということは、一つ掛け違えば、「寝たきりになって何もできなくなった人」「そうなりたくない」と思ってしまうような、人生の意味を閉ざしていく出会い方もあり得る。医療者が、命に勝手な優劣をつけて、寝たきりになった人を生きる意味のない人と見てしまい、無駄な医療をしているといって空しくなり、行きづまっていくというのを聞くこともある。しかし先の患者さんは、浅田さんに、最後まで命を輝かせ続けた人として出会われたからこそ、あれほど晴れやかなお顔をされたのである。

なぜそういう出会いができたかといえば、やはり「生きるのがつらい」という苦悩があって、その苦悩からの問いを物語として共有したからであろう。そしてその物語の奥底に、確かに生きるとはどういうことかと問い求める「菩提心」が流れているからこそ、一人の人を確かに生きた人と見て、その人生に出会える、ということがあるのだろう。あの晴れやかなお顔をたよりに、その根っこにあるものをたずねていきたいと思った。