人生に喜びはあるか ―医療現場の問いと仏教の問い―(9)

人生を全うしたのかどうか

:「人生全体を全うする」という言葉があったと思うのですが、ALSの人が「人工呼吸器をつけますか」という場面になった時に、「つけません」という選択をされる方もあると聞いているのですが、私自身は、毎年、誕生日に、人工呼吸器、人工栄養、それから臓器を提供することも、臓器を提供されることもしないと書いています。科学技術がとても発達していて、人工的なかたちで生を延ばすということについてすごく疑問があって、食べれなくなったら、呼吸ができなくなったらそこまでかなという、そういう全うの仕方という意志が今あるのですが、先生の患者さんの中で、人工のものに頼らないでという選択をされるという方もあるのか、ということと、さきほど浅田友井さんが「お医者さんにお任せします」と言われたそうで、任された方が大変やなという、先生にそんな場面はあっったのか、お聞きしたいのです。

:先ほどの浅田さんがいわれたことは「生きてもよし、死んでもよし、お任せします」と言われたのです。

岸上:今日の話でも、人工呼吸器を付けて生きること選んだということがありました。そうすると、人工呼吸器を付けて生きることを選んだことがなにか素晴らしいことのように伝わってしまっているとすると、そういうことではないのかなと思っています。人工呼吸器を付けないという選択をされることももちろんあります。どういう心で選んでいるのかということが、本当は大事なことなのかなと思うのです。例えば、苦しいことが嫌だから人工呼吸器を付けるということも、その逆もあるわけで、苦しいことが嫌だから、もう付けないということもあるでしょうし、一方では、これで人生満足なんだと、全うしたというかたちで選ばないということもあるだろうと思います。自分の思いの中で選んでいくのか、そうではなくて、自分の思いを越えていのちを全うしたということのなかで選んでいくのかということがあります。「生きてもよし、死んでもよし、お任せします」ということについては、実際の医療現場で「お任せします」と言われる時は、選べないから「お任せします」ということがあると思います。人生を全うしたといって、選んで「お任せします」というのとは決断の意味が違ってくる。人工呼吸器を付けるにしても、付けないにしても、お任せするにしても、それを決断する側の心というか、そこが問題なのではないかというふうに思います。けれども実際は、自分の思いという中で、皆さん悩んでいかれるし、どんな心で何を選ぶのか、そこがなかなか決まらないから苦しいと。そこをどう越えていったらいいのかということが、仏教の課題ともつながっていくのかなと思っております。

司会:今日はこれで崇信学舎同人会学習会を終わります。ありがとうございました。

(二〇二二年三月二六日、崇信学舎巻頭言同人会学習会講話)