罪の意識

[この記事は『崇信』二〇二四年六月号(第六四二号)「病と生きる(102)」に掲載されたものです]

認知症外来に来られている方のことである。あるとき、ご家族が言いにくそうにお母さまのことを話された。夜間に起きて、家の中をうろうろしている、と。外に出て行こうとすることも何度かあり、目が離せないのだという。これはしばしばされる相談である。

医学的には、時間の見当識障害で、時間の感覚がわかりにくくなり、昼だと思って出かけようとするとか、場所の見当識障害で、目が覚めたときに自分の家ではないような感覚を抱き、自分の家に帰ろうとするとか、様々に説明はできる。単に眠れないから何かをすることを探している、ということもあるだろう。理由はさまざま考えられるが、ともかく夜中に外に出て行くは危険だし、帰れなくなってしまっては大変だということで、家族としては心配でゆっくり眠れない。

そういうとき、家族からはしばしば、何とか薬で眠らせてもらえないかとお願いされることも多い。それに対して、薬を使う前に、なぜ出ていこうとされるのか理由を確かめましょうと言ったりもするが、疲弊している家族には酷なこともある。

しかしこのご家族は、すぐに薬を希望されるのではなく、お母さまのお話をよく聞こうとされる方だった。それでも興奮してしまってはもう話が聞けず、なぜ出ていこうとされるのかわからないことも多いという。だいぶお疲れのご様子であったので、むしろこちらから薬を使うことを提案した。しかし、私が我慢すればいいことだからもう少し様子を見ます、と言う。同様のことが何度かあったが同じ答えであったので、あるとき、薬を使ってもいいタイミングだと思うが、なぜそうしないかを尋ねた。すると、自分の都合で、無理に薬で眠らせてしまうようなことは、罪の意識がある、と言われたのであった。
このようなことを言われたのは初めてである。もちろんそういう意識をお持ちの方はあったのかもしれないが、「罪」という言葉ではっきり表されたことは聞いたことがなかった。

それは、ただ自分の生活を優先することが当然だと割り切るならば、生まれない意識であろう。母の尊厳性を傷つけまいとする心と同時に、しかし自分の生活が乱されることに苛立つ。その矛盾する心の中でこそ、罪の意識が生まれるのではないか。一人の人間の尊厳を求めるからこそ、生活の中で自分の欲求が一人の人間を傷つけるということに苦しむ。

『カラマーゾフの兄弟』を読んでいると、ホフラコーヷ夫人が確かな信仰について問いを出す場面がある。それに対して長老ゾシマが「実行の愛」というが、夫人はそれが問題だという。「もしわたくしに傷口を洗ってもらっている病人が、即座に感謝の言葉をもって酬いないばかりか、かえってわたくしの博愛的な行為を認めも尊重もしないで、いろんな気まぐれで、人を苦しめたり、どなりつけたり、わがままな要求をしたり、誰か上役の人に告口をしたりなんかしたら(中略)、その時はまあどうでしょう?わたくしの愛はつづくでしょうか、つづかないでしょうか?(ドストエーフスキイ(米川正夫訳)『カラマーゾフの兄弟』)と問う。それに対して長老は、一人の医者が同じようなことを打ち明けたという。「全く人類のため十字架をも背負い兼ねないほどの勢いでいるが、そのくせ誰とでも一つの部屋に二日と一しょに暮すことが出来ぬ」と。ではどうしたらよいか、絶望のほかないのかと問う夫人に、長老は言う。「あなたがこのことについてそのように苦しみなさる……それ一つだけでもたくさんじゃでな。」

先のご家族に罪の意識が生まれたという、そのことこそ信ずべきことなのではないか。人間の本来性に背いているという苦悩の中にこそ、ほんとうの尊厳とは何かと求める心が確かにある、と。そう受けとめつつ、疲弊しない生活のことも同時に考えなければならない。思いのままにすればよいと割り切るのでもない、罪の意識に埋没するのでもない、苦悩の現実に立ってなされる瑞々しく創造的な生活とは、はたしてどういうものだろうか。

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