時間の花

 先日、新たにALS(筋萎縮性側索硬化症《きんいしゅくせいそくさくこうかしょう》)の患者さんが入院された。頸部には気管切開といって、空気を通す管を入れるための穴が開けられており、人工呼吸器がつながれている。進行が早く、診断されて一年ほどで全身の筋力がほとんどなくなり、今動くのは眼球と眼瞼、そして数カ所指がピクリと動くだけである。

 意思疎通は透明の文字盤を用いる。そこには大きめの文字で「あ」「か」「さ」…「わ」と書かれており、「あ」のまわりには「いうえお」、「か」のまわりには「きくけこ」というぐあいに文字が並ぶ。例えば言いたい文字が「き」であれば、まず「か」あたりを見る。読み取る側はその目線あたりの文字を「あ」「か」「さ」と順に読んでいく。「か」で瞬きされたら、今度はまわりの文字「かきくけこ」を順に読んでゆく。「き」のところで瞬きされたら、メモ帳に「き」と書き込む。そうして一文字ずつ読み取っていく。私はこの日まず「あつい」「えあこん」の二語を受け取り、部屋の温度を少し下げた。

 私はふと昔のことを思い出した。大学病院に勤めていた頃のことである。一度に二十人近い患者さんを受け持つ。朝の回診はゆっくり話を聞いていては全員回ることができない。その間にも呼び出しや緊急入院が入る。昼食中にもひっきりなしに電話が鳴る。午後からの検査が少しでも長引くと、何時までにこの指示が必要だと看護師から催促の電話。やっと検査が終わったと思えば次は夜のカンファレンスである。効率よく仕事をしないととても終わらない。患者さんが病気と関係のない話を始めると、無駄な話だとイライラし、必要なことだけ話すように促す│。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品がある。町の人は何かあると、主人公のモモのところにいって話を聞いてもらう。特別頭がよくて良い考えを示すわけでもなく、心にしみる言葉をかけるわけでもない。「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした…」そうしてモモと話をしているうちに町の人は自分を取り戻していく。ところがそこに「灰色の男」が忍び寄る。人々から時間を盗む時間貯蓄銀行の外交員だ。ある床屋は、時間が無いから成功できないと嘆いていた。そこに灰色の男が近づき、客とのおしゃべり、母の介護、インコの世話、合唱団の練習、足の不自由な彼女のお見舞いなどの時間は全部無駄だから、節約して時間貯蓄銀行に預けなさいと言う。そうして一切口をきかずに仕事をするようになり一日の仕事はたった二十分ほどで終わるようになったが、いつもイライラするようになり時間はあっという間に過ぎてゆく。盗まれた時間は「時間の花」として地下深くの冷凍庫に凍結保存される。

 先日、障害者総合支援法の国会審議に出席するはずだったALSの患者代表の方が、時間がかかるという理由で拒否されたというニュースがあった。ここにも灰色の男は潜んでいたようだ。これは他人事ではない。思えば「忙しい」と言って患者さんの言葉が熟すのを「待つ」ことができず、どれほど多くの言葉を枯らし、大事な「時間の花」を失ってきただろうか。

 今私は彼の言葉の一文字一文字を待つが、その文字の向こう側に流れる彼の時間を、気配すら感じ取れていないかもしれない。それでも、いや、だからこそ彼は、固く凍結され、私が気にも止めなくなった青や黄や赤や白の色とりどりの「時間の花」を、溶かし出そうとしてくださっているのではないか?モモが町の皆と泣き笑い、喜びを分かちあう時間を取り戻したように。

[『崇信』二〇一六年七月号(第五四七号)「病と生きる(11)」に掲載]

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