先月号でお話しした、まもなく百歳の女性のその後をお伝えしたい。それからも食事はほとんど摂らず、徐々に身体は衰えていった。素っ気ない態度は変わらず、別に何もしてもらうことはないといって口を閉ざし、それ以上のお話はできずに時は流れた。医師として何かしようということではなく、人生の歩みをお聞きしたいというつもりで臨んだが、それはかなわなかった。そうして徐々に眠っている時間が長くなり、会話もできなくなっていった。
死んでいく道が定まったということなのか、それとも空過する時に投げ出されているのか。今歩んでおられるのは、老病死によって輝きを失うことのないいのちを生きる「浄土への生」の道か、死によってすべてが終わっていく「死への生」の道か。そんなことを考えてしまうのであったが、それは私がわかることでも評価すべきことでもない。ただあるのは百年を生きた歩みの上に今抱いておられる何らかの思いと、その思いに触れることができずにいる私の思いと、その思いを超えて、浄土への生を生きて欲しいという願いなのであろう。
あるとき娘さんとお話をすることができた。昔からこんな感じで愛想はないけれども、何でも自分でしてきた苦労人で尊敬しているのだと。常々「人様に迷惑をかけてはいけない」といい、それが信念だったと。そのようなことをお聞きした。何もしないで欲しいという態度は、これ以上迷惑をかけてはいけない、介護が必要な自分が長く生きるのはその信念に反する、ということなのだろうか。
胃瘻や人工呼吸器などの処置をしないという人が挙げる理由の一つとしてよく聞くのが、「迷惑をかけたくないから」ということである。それを聞くたびに今まで診てきた患者のみなさんの顔が浮かぶ。みな助けがなければ生きていけなかった。では、誰かの助けを借りるということは迷惑なのだろうか。もしそれを迷惑だと言ってしまったら、助けが必要な人が生きること自体が迷惑だということになる。自分に向かえば老病死を前にして残されたいのちの輝きを奪い、他者に向かえばあの相模原事件にもつながる考えではないか。
そもそもどんな人も一人で生きていくことはできないのであるから、そういう意味では誰もが生きているだけで迷惑をかける存在である。にもかかわらず「私は迷惑をかけない」というのは事実を見ていないばかりか、そこには「あなたも私に迷惑をかけるな」ということを含んでいて、人と人とを分断していく考え方ではないか。「私は迷惑をかけますから、あなたもかけてください」と言って迷惑をゆるす、助ける―助けられるという関係を迷惑と捉えない、というのが本当ではないのか。
しかし、自分の介護で娘に苦労をかけたくない、という思いもまたよくわかる。迷惑をかけたくないという言葉の中には、生きる意味を奪い自他を分断する心とともに、迷惑をかけたくなくてもかけてしまうどうにもならない自分の境遇を認めつつ他者を思いやる、葛藤の心もまた含まれている。
娘さんは、最期に母から「ありがとう」という言葉が聞けたんですと言って涙された。もし本当に一切迷惑をかけずただ一人で生きたというのであれば出てこない言葉である。そこには、ただ感謝ということにとどまらない、深いいのちのつながりの有り難さが表されていたからこそ、心に響いたのではないか。
しばらくして静かに息を引き取られた。
[『崇信』二〇一九年三月号(第五七九号)「病と生きる(43)」に掲載]
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