人生に喜びはあるか ―医療現場の問いと仏教の問い―(6)

出会いの根拠

苦しみにとどまれない

もうすこし、先ほどの安楽死を選んだ女性の言葉に戻って確かめておきたいと思うのですが、もうひとつここで注目しておかないといけないことは、「私が私であるうちに」と言われている言葉です。
「それでも生の喜びを感じているのか、生きていたいと思っているか、自問自答する」とあったように、死にたいという声の奥で、ほんとうに生きる道はないのか、と葛藤されている姿があった。その葛藤の中心に「私が私でありたい」という心がある。それを見るということがほんとうは大事なのに、そこにとどまれない。苦悩にとどまれない。ここが非常にもどかしいところでもあり、大事なところでもあるんだろうと思います。

苦悩にとどまる、ということではなく、苦しみを無くするにはどうするか、という方向にいってしまう。この方の場合は、生きる意味がないと決定してしまった。苦しみを無くす方法は死ぬことだけだと決定してしまった。

いまは安楽死という問題ですが、はじめにお話ししていましたALSの場合、呼吸ができなくなる状況で、人工呼吸器をつけて生きつづけるかどうか、という選択が迫られる。つけないということは、そこで命を終えていくということです。そういう非常に厳しい決断が迫られる。

そういうときに、どちらが苦しくないか、と考えるのはある意味当然ではないかと思うわけですが、しかし決められない。なぜならどちらをとっても苦しい。その苦悩は何かといえば、「私が私として生きる」「人間として命を全うする」ということがわからない。だから苦しいわけです。

なぜ苦しむのか

なぜ苦しいのかということを教えていただいた言葉で、ただ印象に残ったというだけでなく、私自身の力にもなった言葉を紹介させていただきます。

なぜ苦しむのか。それは真実を求めているからです。苦しみそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです。何も信じられないという苦しみのただなかに、真実を求める心が現にあると認めざるをえません。

この真実を求める心が自らの内に明らかにあるのだと認めることが、ただ一つ信じられるものなのです。そして自らにその心を認めることができれば、他者の上にもそれを認めることができます。それは同時でしょう。
(宮下晴輝『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』七〇頁)

こういうふうに教えていただきました。「苦しむという形で、私たちは、真実を求めている」この言葉が大変響いています。ここが私自身にとっても、非常に大事な出発点になったと思っています。自分が苦悩しているということは、ただマイナスの、無くさなければならないことだと思っていたわけですが、ここに「苦悩の意味」をはっきり述べていただいた、ということが僕にとっても非常に大きかったのです。

真実を求める心(菩提心)

この真実を求める心というのは、「老病死で崩れないのちを生きたい」ということでもあるのでしょうし、「人間としていのちを全うしたい」あるいは「私が私としていのちを全うしたい」ということだといってもいいと思います。仏教の言葉で言えば「菩提心」という言葉でおさえられるのかもしれません。苦悩というのはそのまま菩提心なのだというふうに教えていただくわけです。

「私が私でありたい」という言葉のなかに、ほんとうはそういう願い、叫びがあるわけですが、しかし「自分がどうしたいか」ということのなかにしか答えが見出せない。菩提心が迷うというふうにいうのかもしれません。

まず、その真実を求める心に、自分も気づけない。「自分はこうありたい」という自分がつかんだ意味の方に引っぱられていく。他者を見て、ただ「あんなふうに生きても意味がない」とつかんでしまう。そのつかんだものを根拠としてしまう。「こんなふうになってまで生きていたくない、こうなったら死にたい」という思いが増幅していくということがある。だから、出会いの根拠が大きな問題になってくると受け止めるわけです。

満足に生きた人との出会い

無量寿経がなぜこれほど出会いということをテーマに語っているのか、ということを、こういうところから確かめられるのではないかと思っています。ただ出会うということではなく、どういう出会いなのか、出会いの根拠、私が私として、人間が人間として歩み出すことが始まるような出会いとは何か。人生を満足に生きた人の出会いとはどんなことなのだろうか。すごい人と出会った、というその人の能力と出会ったのでもないし、誰も成し遂げていないことに出会ったのでもない。過去の人が歩んだ満足の道に私も出会う、という出会い。それはどんな出会いなのかということが大きな問題だと受け止めています。

自分自身を生き抜く

2012年2月11日テレビ朝日で放送されていた番組で、報道記者の谷田人司さんという方が紹介されていました。このかたは、自身がALSになられました。そして、人工呼吸器をつけて生きていく道を選ばれた。そうやって生きていく道を選んだことの背景を知りたかったのですが、そこには記者時代の出会いがあったというのですね。谷田さんは記者時代に、癌患者の三成(みなり)さんという方に取材で出会いました。その出会いが大きかったとおっしゃっています。病の中を生き続けることの意味を、最後まで命を燃やした三成さんの姿から学んだというんですね。三成さんの生きる姿に出会って、生きることを学んだという谷田さんは、三成さんを見て、いのち尽きる瞬間まで、いのちを燃やし尽くした人と見た。そして、私もそう生きたいと願ったわけです。そして、人工呼吸をつけても生きる意味があるんだ、TLS(完全な閉じ込め状態)となっても生き続けたい、生き続けないといけないという使命のような言葉でも語られていました。

そして、その番組がいい番組だと思ったのは、それで終わらず、そこから葛藤が始まるのですね。実際にTLSになった人を尋ねていかれるんです。TLSになって本当に生きていく意味があるのか、という葛藤についてスポットを当てていくんですね。そうやって「問いつづける力」のようなものをもってたずねていく姿が、番組で取り上げられていました。このように、自分自身もそのように生き抜きたい、という願いを生きた人に出会うことによって、私もそう生きたいと願うようになり、そして、どう生きることが自分自身を生き抜くことになるのかという問いをもって生きることが始まっていく姿を見せていただきました。

「私が私でありたい」という問いは、しばしば「自分がこうありたい」という自分がつかんだ答えにしばられるわけですが、そうではなく、生きることを切り開いていく力になる。そういう出会いが描かれていたということです。「私が私でありたい」という願いの意味が変わったわけです。

これは仏教者の話ではないですが、無量寿経が描いている出会いの物語というのは、こういう出会いの、最も研ぎ澄まされた形が語られていると受けとめられるのではないかと思っております。

そういう、人生を満足に生きた人のその生き方、態度と出会った、自分自身を生き抜きたいという願いに出会った。出会ったというのは、その人をそう見たというふうにいえると思います。そういう意味で、無量寿経の物語に通じるのではないかと思うわけです。「わたしがそう思うんだ」「自分はそう感ずるんだ」「自分はそうしたいんだ」と、どうしても自分というところに閉じこもってしまう。仏教の言葉でいえば、それを「無明」というのだと思いますが、そんな無明を根拠として意欲するのではない。自分の外にある人の姿を見て、自分もそうありたいと願う、そのような意欲が人間にはあるのではないか。そういうものを「清浄意欲」「願」という形で確かめていくということが大乗仏教の課題であり、医療現場の課題でもあるのではないかと受けとめています。
(続く)

[『崇信』二〇二二年十月号(第六二二号)に掲載]