人生に喜びはあるか ―医療現場の問いと仏教の問い―(7)

まとめ

一緒に問いたずねていく

長らく確かめさせていただきましたが、いま改めて問題にもどりますと、問題は、「人生に喜びはあるのか」「絶望の中からどうして歩み出すことができるのか」ということでした。そして、「出会いによって歩み出すことができたという事実」があるということを確かめてきました。「出会いによって歩み出すことができたという事実」という言葉で押さえたいと思うのは、仏教の学びの中でとても印象に残っている言葉です。それは、宮下先生が児玉先生から教えられたことを語られて、

「仏教は結局は光顔巍巍という出会い、事実としてあるのは、それだけなんだ、その意味をひらいていくことが大事なのだ」

ということを言われたということです。その言葉を確かめていこうという思いで今、学んでいます。
その出会いはどういうところに成り立つのか。出会いといっても何を根拠に出会っているのか、本当に出会っているのか、自分自身を満足して生きていくことが始まっていく出会いがどういうところに成り立つのだろうかということです。自分の中の真実を求める心が出会っていくんだろうと思いますが、それは自分の中からはとても見出せない。どうしても自分の思いで覆われてしまって、人に出会って初めて見出せるということがあるかと思います。

外側に真実に生きたいという心に出会ったとき、私もそう生きたい願うというように、自分にも真実に生きたいという心があることが見出されるわけです。外に出会うのだけれども、内側にある、真実を求める心に出会う。「信楽を獲得する」(真宗聖典二一〇頁)といわれますが、自分の側、内から見れば獲得である、と安田理深先生は押さえられていますし(『安田理深選集第九巻』一七五頁趣意)、また逆に、内にあるのだけども、自分からはとても見出せない。自分の思いに覆い隠されている。外に出会ってはじめて見出される。それを安田先生は外から見れば、「真心を開闡する」(真宗聖典二一〇頁)、外から開かれるという言い方でも押さえられるのだと思います(同上)。そのようなところに、絶望の中からどうして歩み出すことができるのか——それは出会いだ、と言ったときに、どんな出会いなのか、真実に生きたいという願いに生きるということが始まる出会いとはどういうことなのかが語られているといえるのかもしれません。

しかし、それは結論としてそれがあるのではなくて、そうやって歩み出すことができたという事実の一方で、また歩みが止まってしまうという現実もある、願いではなく、私の思いに行きづまっていく。けれど、出会いによって歩み出すことができたという事実を知っている者は、そこに現実をたずねていく力をもらうということがあります。仏教にたずねていきたい、という力です。
臨床の現場というのは、人間としての問いが常に問われる場所です。しかし現実が厳しければ厳しいほど、その現実に流されて答えをつかみたくなる。苦しみを直接的に取り除きたくなる。答えを決めてしまいたい。結論をどうしてもつかみたくなるのですが、そういう場所で、答えはこうだと座り込むでのではなくて、一緒になってその問いをたずねていく、そういう力は医学からは生まれてこないんですね。僕は仏教からそういう力をいただくから、その学びを続けたいと思っています。

ということで、本日のお話しを終わります。ここまで聞いていただきましてありがとうございました。

質疑応答

司会:自分の医療現場の経験を通しながら、仏教との出会いについて語っていただきました。皆さんからの感想なり、質問なりありましたら、お願いします。

ALSの方との出会い

:どうもありがとうございました。私、開教使としてハワイに行っていたんです。その時、初めてALSの方に会いました。お寺へ来るお婆ちゃんが「私の娘に会ってくれないか。私の娘はだんだん体が動かなくなる病気なんです」と言われて、そこへ行って、娘さんとお会いさせていただきました。その時に初めて、そういう病気があって、まだこれは医学では治らないんだということを勉強しました。

その時、その娘さんがどうしておられるかというと、そういう病気ですけれども、「私が今、この病気をしておるということが、何かの役に立つののではないかと思う。私はだんだん体が動かなくなっていくけれども、これを正確な記録に残したい。それをするのが私の仕事です」と。なぜかというと、「必ず私と同じ病気をする人があるし、今、医学的にわからなくても、この病気をした人の体験がなにか役に立つのではないか。だから一つ一つ正確な記録を残していくことが私の仕事です」とおっしゃいまして、その娘さん、五〇代くらいの方だったのですが、非常に明るいので、そういう話を聞いてびっくりしたんですよね。

どこからその力が出るかというと、お婆ちゃんの念仏ではないかなと思ったのです。それをお婆ちゃんは言われない。ただ「娘に会ってください」と言われたのは、お婆ちゃんと娘さんしかおられない家でしたが、きっと二人がつくっている関係というのに非常に感銘を受けた覚えがあります。

思いますに、仏教は先生の言われる「願い」というか、娘さんは願いという世界に目覚めておられて、願いに生きておられたのだろうと思いました。今日、お話を聞いて、そのことを思い出しました。ほんとうにありがとうございました。

岸上:患者さんが生きる意味を失っていくというなかで、なにかこれは意味があるんだと思いたいとか、それから仏教者が外から「あなたが今苦しんでいるのは大事なことなんですよ。意味があるんですよ」と言ってしまうのだけれど、外から「意味があるんですよ」ということではなくて、内から立ち上ってくるようなものでなければ、かえって酷なことかもしれない。先ほどの柳田さんとの会話でも照川さんがそうおっしゃっているところがありましたけれど、僕自身もなかなか「今の苦しみというのは大事なことを経験しているのですよ」ということは言えないということがありまして、そういう内から立ち上ってくるような、そういう意味ということを確かめ合えるような関係性ということは大事にしていきたいなあと思います。今のお話しからそういうことを教えていただき、ありがたいと思います。

人間としての学びをしたい

:岸上さんは僕の実家の認知症の母の主治医でもあって、相談しています。僕はどうしても昔のしっかりとした母親と比べて、「何をしているんや」という気持ちで見てしまう。今でもそうです。人間として僕も母と同じ苦しみを抱えて生きているとなかなか思えないんですが、そういうこととは別に、母と一緒に時々デイサービスの場所に出かけるんです。そしたら、先ほどの岸上さんの話のなかにもあったように、デイサービスというのは喜んで帰ってほしいという気持ちがあって、歌を歌ったりとか、なにか笑顔で帰っていただこうという感じなんですね。でも母のつまらなそうな姿を見ていると、もう少し、人間とは何なのかとか、そういう問題を、仏教の専門的な知識はいらないと思いますが、一緒になってそういうことを学べる場が開かれれば、家族も学びになると思うのですが、そういう現場というのはあるのですかね。そういうことは現場に導入できないのですか。

岸上:それは常々感じていることです。デイサービスへいやいや行かれている方も多くて、確かに人と話すだけでも、ひとつのコミュニティーというか出会いという面もあって、大事な側面もあるんでしょうし、楽しいことをやるのはダメだというのではないんでしょうけれど、それだけになっていますね。実際利用している方も空しさを感じておられるようです。それからこれもある番組で、認知症の専門家で大家の長谷川和夫先生という方がおられて、長谷川式という認知症スケールまで開発された先生です。自分がデイサービスに行って、そこで「僕は独りぼっちなんだよ」とおっしゃるんですよね。そこに本質が表れているように思います。現場の人はそれをうすうす感じていながら、どうしていいかわからない。どこにその問題を確かめていったらいいかわからないということがあって、それが仏教を聞いた者の責任でもあって、そういう人間としての問題を確かめる場を開いていけたらいいなと思うわけです。デイサービスだけではなくて、もう一歩踏み込んで話していくというか、悩みを話すだけでもいいんでしょうけれど、そういう場所がなくて、悩みも話せないという状況があります。具体的な取り組みとしては、たとえば認知症サポーター養成講座というのがあって、そういうところで実際どういう問題を抱えているのだろうかと、利用者さんと医療者とが話し合う場もあるんですけれども、そういう場がもう少し広いかたちで開かれたらいいのかなと思ったりします。

:安田理深先生の奥さんが一〇三歳まで生きられたと思うのですが、一〇〇歳を越えても相応学舎で一番前に座って本多先生の話を聞いておられました。それと同時にデイサービスにも行っておられましたが、「『結んで開いて』とか、ああいうことは空しい、もう少し人間についての学びをしたい」とおっしゃっておられて、それは仏教に関わられて、介護職の人たちの取り組みについて、そんなことをしてほしいと。私の母が行っている間は無理なのかなと思いますが、そういうふうに開いていったらいいと思っておりますので、岸上さん、またよろしくお願いいたします。

岸上:話の中でも言いましたが、医療の現場では「認知症だから」という特別な問題として扱ったり、「○○的な問題」としてしか見られないので、「人間として」というところから一緒に確かめることができないかなと、いつも思っております。

[『崇信』二〇二二年十一月号(第六二三号)に掲載]