2023年受念寺永代経講話 「「そのまま」と「ありのまま」—願に生きるということ—」
[2023年5月8日受念寺の永代経での法話をまとめたものです] 目次1.私たちにとって「信じる」とは何か(前回の振り返り)1.1長谷川和夫先生の話1.2欲と願 ―問題提起—1.3岩崎航さんの話2.「そのまま」と「ありのま...
[2023年5月8日受念寺の永代経での法話をまとめたものです] 目次1.私たちにとって「信じる」とは何か(前回の振り返り)1.1長谷川和夫先生の話1.2欲と願 ―問題提起—1.3岩崎航さんの話2.「そのまま」と「ありのま...
[2022年11月8日受念寺報恩講の講話をまとめたものです] (三帰依文) 皆さんこんにちは。今日は、お盆にひきつづきまして、報恩講でお話しをする機会をいただきました。お盆にお会いしたかたもおられますし、まただいぶ久しぶ...
[この記事は『崇信』二〇二三年一月号(第六二五号)「病と生きる(86)」に掲載されたものです] 認知症の母の介護に手を焼いている、と息子さんから相談があった。尿や便を頻繁に漏らしてしまうという。膀胱括約筋の働きは弱くなる...
しかしそうはいっても、実際の医療現場で、そういう智慧、人間の問題を一緒にたづねていこうということにはなかなかならなくて、「これさえなければいいのに」「私はこうしたい」という、個人の問題というところを越えてたづねるというこ...
[この記事は『崇信』二〇二二年十二月号(第六二四号)「病と生きる(85)」に掲載されたものです] 認知症で通院されていた患者さんが、新型コロナウイルスに感染し別の病院に入院された。奥様も感染したが、症状が重かったこのかた...
目次人間であるが故に自分の問題との関わり 人間であるが故に ここまでALSの患者さんのことをご紹介させていただきましたけれども、我われ医療の現場にいる医療者、私自身も含めてどういうことが欠けていたのかということを、宮下先...
安田理深先生は「『唯識三十頌』聴記」で、このように述べられる。 有漏の諸法を蔵するとは、つまり私が経験をもつということ、それが阿頼耶識である。総じて生活ということを成り立たせる識である。私という言表が、それにおいて立てら...
向き合うべき問い —四門出遊の問いとALS患者の問い だから「問いにとどまる」ということは「痛みにとどまる」ということもあるのではないかと思うわけです。しかし問いにとどまる、痛みにとどまって尋ねるといっても、どう尋ねたら...
安田理深先生は「『願生偈』聴記」で、このように述べられる。 浄土は、相から出発するところにはない。相を果とするところの因位、その果となるところの相なき相から出発するところに、あるのである。人間的悩みから出発するのではない...
目次二つの転機対象としての問い — 問題がわかっているという思い込み問いにとどまる問いにとどまるということは痛みにとどまるということ 二つの転機 僕は医療現場で抱いた自信のようなものを二度くずされたと思っているのですが...